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大橋翠石の写実性について―喪失と孤高の中で―

岡田 暁宜(名古屋大学総合保健体育科学センター/大学院医学系研究科精神病理学・精神療法学)

​抄録本文

 虎図で有名な日本画家の大橋翠石(1865-1945)は、1895年の第4回内国勧業博覧会で銀牌を、1900年のパリ万国博覧会、1904年のセントルイス万国博覧会、1910年の日英博覧会で金牌を受賞して、国際的にも高く評価されており、最近では2017年に安倍晋三首相がプーチン大統領に翠石の掛軸を贈ったことでも知られている。
岐阜の大垣に生まれた翠石は、絵が好きだった父親の影響で絵を描き始め、10代で才能を発揮し、大垣の戸田葆堂、1883年(19歳)で京都の天野方壺に師事するが、1886年(21歳)に父母への思慕の念から修行を中断し、大垣に戻るが、母に諭されて、翌年、東京の渡辺小崋に師事し、写実的な画風を身につける。1887年(23歳)に母と小崋を失った後、大垣に帰郷し、独学で写生画家として修行に励み、知人の勧めで虎を描き始める。1891年(27歳)に濃尾大震災によって父を失った。納骨の際に京都で円山応挙の虎図の写真を入手した後、大垣で行われた見世物を通じて、生きた虎を写生するとともに毛描きの技法を完成させて、前述のように国内外で高い評価を受けるようになる。しかし翠石は中央の画壇との関係を持たなかったようである。1907年(37歳)に実妹を失い、1911年(47歳)で四男が生後すぐに他界する。その後、結核の療養のために1912年に48歳で神戸の須磨に療養とともに移住する。鶴崎平三郎の尽力で神戸の財界や政界の支援を受けて、解剖学の知識あるいは西洋絵画の陰影や背景の技術を取り入れた「須磨様式」と呼ばれる画風を完成させる。1923年(59歳)で右手の神経痛のために左手で絵を描くようになる。1928年(64歳)に三男が結核で他界する。1945年(81歳)の神戸大空襲の後、大垣に疎開し、同年に他界した。
 翠石は学画時代に両親や師匠の喪失を経験し、「生きた虎」を写生することから、独自の画風・画法を完成させたが、最大の特徴は「生きた写実性」にあるだろう。前述のように国際的に評価された後も文展(文部省美術展覧会)、帝展(帝国美術院展)、院展(日本美術院)などの中央画壇に出品しなかったために「孤高の画家」(独立画家)と評されている。翠石にとって「生きた虎」や「生きた動物」を生きた写実性を通じて描くことで、自らの家族愛や郷土愛に生命を吹き込んでいたと思われる。

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