第72回日本病跡学会総会
田中一村は幼少の頃から画才を発揮し若くして南画家として評価されていた。東京美術学校に入学するが2ヶ月で中退。その後、千葉に移住し創作を続けたが中央画壇には認められず、50歳を過ぎて奄美大島に移住した。紬工場で染色工として働きながら奄美の自然を描き続けたが、ほとんど世に知られぬまま69歳で生涯を閉じた。没後、遺作展やTV番組で取り上げられると全国的に注目を浴び、繰り返し展覧会が開催され、奄美大島に記念美術館も設立された。2024年には東京都美術館で大回顧展が開かれたのは記憶に新しい。
田中一村という現象は、その作品の魅力とともに、「孤高」や「異端」と形容される高潔な生きざまに対する人々の憧憬と共感によって作り上げられてきた。神童と言われ嘱望されたが、清貧の中で不断の努力を重ね、南の島で無名のまま不遇な一生を終えたという伝説・物語が一村作品とは不可分の要素となっている。
様々なエピソードが示す強いこだわりや、その反面としての柔軟性の乏しさ、感情制御の難しさなどから、一村が発達上の特性を持っていたであろうことは窺い知れる。その特性に合わせた生き方を支えた健康生成的要因は、食事や運動などの工夫、自然の中での暮らし、気心が合い援助を惜しまない人たちとの関係の維持、不要なストレスを回避し画業に邁進するための積極的孤独、高い知的能力と強い意志やプライド、真面目さや誠実さとユーモアの心、そして絵を描くという行為そのものであった。
一村は幼少の頃から古典的絵画の模倣学習に励み、青年期には中国海上派など様々な画法に取り組んだ。一村が学び習得した技法や様式は、それらに対する選好性や親和性を反映している。奄美に移住してからは、その集大成とも言える独自のモチーフと構成の絵画を描き続けた。空白恐怖を思わせる密で隙のない全ての細部に焦点の当たった描き方、視点の多重性、人物表情表現の乏しさや画題選択にも特性由来の特徴が認められる。
一村の人生への向き合い方を辿ると、様々な健康生成要因が見えてくる。しかし、それは創造活動の前提条件を整える要因に過ぎない。晩年の奄美の代表作は、自分自身も含めた様々な人間の死と向き合うことから表現のさらなる深みに達したのではないかと思われる。健康―非健康の軸を超えた次元から一村とその作品という特異点を理解する手がかりを探る。