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シンポジウム2

「日本人画家の健康的な側面に光をあてる」

4月20日(日)15:00〜17:00

藤田嗣治の戦争体験をめぐって

宮下規久朗(神戸大学大学院人文学研究科)

★★プロフィール★★

 1963年名古屋市生まれ。東京大学文学部美術史学科卒業、同大学院修了。『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』(名古屋大学出版会)でサントリー学芸賞など受賞。他の著書に、『食べる西洋美術史』、『ウォーホルの芸術』(以上、光文社新書)、『モチーフで読む美術史』『しぐさで読む美術史』(以上、ちくま文庫)、『ヴェネツィア』、『闇の美術史』、『聖と俗 分断と架橋の美術史』(以上、岩波書店)、『そのとき、西洋では』(小学館)、『聖母の美術全史』(ちくま新書)、『日本の裸体画』(ちくま学芸文庫)『バロック美術』(中公新書)など多数。2024年より放送大学で「西洋の美学・美術史」を担当。

 藤田嗣治(1886~1968)は、近代日本を代表する洋画家にして、国際的にもっとも大きな名声を博した日本の美術家である。後に軍医総監となる父のもとに生れ、東京美術学校卒業後、父の援助によってパリに渡って制作する。乳白色の肌と繊細な線描による女性ヌードや猫の絵によって画壇の寵児となり、エコール・ド・パリの中心人物となった。第二次世界大戦が近づくと帰国し、個展や壁画などで華々しく活躍するが、日中戦争が始まると中国に派遣され、軍部の依頼で戦争画を描く。《哈爾哈河畔之戦闘》など当初の戦争画は、それまでと同じく線描を主とする日本画的な様式を示していた。
 しかし、1941年に父が他界し、翌年陸軍によって南方に派遣されてからは、《シンガポール最後の日》のように、それまでの様式とはまったく異なる重厚で伝統的な西洋の歴史画の様式を示すようになる。翌年発表した《アッツ島玉砕》は、茶褐色の画面に凄惨な肉弾戦を描いたもので、全国に巡回して大きな注目を集めた。これ以降、彼は異常なほどの熱意と速度で戦争画の大作を次々に制作、それらは他の画家たちにも大きな影響を与えた。終戦時まで手を入れていた大作《サイパン島同胞臣節を全うす》はその集大成となった。
 終戦後、GHQの文化活動に関与した藤田に対し、戦争犯罪者だという批判が起こり、日本美術会は彼に活動自粛を勧告する。藤田は1949年に日本を離れ、アメリカを経てフランスに定住。戦前期と類似した様式に回帰して子供や動物の絵を描いた。1955年にはフランス国籍を取得して日本国籍を抹消。1959年にはカトリックの洗礼を受け、ランスの礼拝堂の内部装飾に力を注ぎ、完成後ほどなくして没した。
 以上のように、藤田の生涯と画業は戦争によって大きく二分されるが、彼は当初不本意であった戦争画に徐々に熱中するようになり、戦争画の指導者となった。そのときの彼は、国家に奉仕する使命感や喜びを表明している。戦後、国に捨てられたと感じた彼は再び身近なモチーフを選び、やがてキリスト教信仰に目覚めた。戦争画の大作を描いたときの大きな創作意欲は、教会装飾に向けられたのである。
 彼の制作の動機や目的として、パリ時代は画壇、戦時中は国家、戦後は信仰という変遷をたどることができ、その価値観の拠り所として、父、天皇(国家)、神(信仰)という変化があったといえよう。それは彼にとっては変節というより、その都度、真剣で健全な動機にほかならなかった。

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